SPRING DREAM

水曜日に有明コロシアムに行きます

笄の渡し

笄の渡しは、長野県坂城町にあります。
難しい漢字ですが、「こうがい」と読みます。
 
長野県公式観光ウェブサイト、「さわやか信州旅ネット」から引用させていただきます。
 
以下引用
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読みは「こうがいのわたし」。
坂城町千曲市との境界に係る橋で、村上義清公の居城の葛尾城が陥落し、奥方が逃げ延びる際の話から
名づけられたもの。天文22年(1553年)4月、武田軍の調略にもはやこれまでと悟った村上義清は、
越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って密かに落ちのびることを決意。しかし、周りを敵に囲まれた状況で、
とても奥方を連れてはいけなかった。そこで仕方なく奥方は千曲川を挟んで対岸にある東国寺に逃げ込み、
仏門に帰依して俗世との関わりを断ち、武田方に捕らわれることから逃れようと考えた。
義清の奥方は、数人の腰元と着のみ着のまま暗い山道をくだり、荒砥城を目指したが、一行の前には、
雪解けの水を満々とした千曲川が広がっていた。
敗軍の将の奥方を逃がす手伝いをすると、後に咎められることになってしまうことを心配して、
向こう岸に渡るための舟を出してくれる船頭はなかなかみつからなかったが、懸命に説得したところ、
ひとりの船頭が戦いの最中にもかかわらず舟を出してくれた。
我が身の危険をかえりみず、舟で渡してくれた船頭に、奥方は心を打たれ、
お礼として髪にさしていた笄(※)を手渡したと言われている。
 
※こうがい=髪をかき上げるのに使った、箸[はし]に似た細長い道具。主に銀・象牙などで作られた。
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引用終わり
 
この場所は、苅屋原ミニパークという名前で、普通乗用車などが停められる休憩場所として整備されています。
イメージ 1
現在は、渡しがあった場所などは見当はつくもののはっきりせず、特に何も残っていないそうです。
 
 
この看板は、橋を渡った向こう側、千曲市力石地区に建っています。力石は、「ちからいし」と読みます。
イメージ 2
笄の渡しがあったとされる場所には、現在、笄橋(こうがいばし)があります。少し変わった小さな橋です。
 
 
笄橋(こうがいばし).。橋の両側が低くなっていて、真ん中が高くなっている構造になっています。
イメージ 6
この日は最近の雨で千曲川の水量は多めでした。
 
 
昭和59年竣工と橋に書いてありました。
イメージ 7
坂城側から千曲市力石地区に渡っても、その先のアクセス道路が貧相なので地元の人以外利用しないかも。
 
 
笄っていう字、どうやって変換すれば出てくるのかわからなかったので、別のところから貼りつけました。
イメージ 3
力石地区は、以前は上山田町でしたが、合併で千曲市になりました。
 
 
写真右中央に見える青っぽい橋が笄橋です。
イメージ 4
ここのミニパーク、交通量が多くて少しカーブの手前にあり騒がしくて休憩するには不向きな場所ですね。
 
 
笄の渡しから車で20分くらいの場所にある荒砥城(あらとじょう)。現在は千曲市城山史跡公園となっています。
イメージ 5
写真左に見える橋が笄橋。
 
千曲市城山史跡公園には、またの機会に来ようと思っています。この日は時間が遅くなってしまいました。
イメージ 8
 
ここまで行くためには、かなり急な坂道を登ることとなります。1990年代まで、麓からのロープーウェイが
あったそうなんですが、現在はありません。当時は小さな遊園地などもあってにぎわったそうです。
 
割愛しますが、その後の奥方のお話、鬼ヶ島民話というものも伝えられています。
 
史跡、ミニパークの場所はここになります。

武田信玄は、生涯に戦(いくさ)で2回負けたといわれています。その2回はいずれも村上義清が相手でした。