青木村は、上田市のベッドタウン。上田市まで車で30分で行けますし、
平成の大合併の時には、最初からどことも合併協議会に参加しないと
表明した自主独立な村。上田小県地域(いわゆる上小地域)で
唯一合併をしなかった自治体です。(坂城町は埴科郡なので非該当)
五島慶太で「ごとうけいた」と読みます。元々は小林姓。
五島姓は、結婚した奥様の祖母の家柄(旧沼田藩士)を名乗ったため。
開館したのは、2020年の6月。まだ新しさを感じる館内。
館内は、映像の部分以外は撮影OK。(確認とりました) 入館無料です。
ジオラマの看板は、微妙に名前を変えています。
しかし、東急はそのまま。そりゃそうだ。
しかし、東急以外でセブンイレブンだけは実名。なぜでしょう。
実は、セブンイレブンに承諾をとって実名にしたそうです。
「夕立と騒動は青木から」 これは上田市街地から見た言葉。
自分で堂々とこの言葉を展示するだけのプライドがあるのでしょう。
青木村は義民の里、というキャッチフレーズは見たことはありました。
義民とは、御上に直訴してその結果犠牲になった方々などを指す言葉。
直訴をすれば願いは叶うことはあったものの、その代償は代表者の命でした。
1870年の中野騒動ではその結果県庁が長野市に移ってしまい、
中野市は長野県の県庁所在地に成れたかもしれない未来を失いました。
小林一三さんのアドバイスを受けたのですね。阪急グループの創業者。
ごとうを文字って強盗と呼ばれたこともしっかり展示されています。
今で言うM&Aなので現在の倫理観で言えば別におかしいことはしていない
のですが、当時はそういうやり方は良しとされなかったのでしょう。
今で言う直通運転とか、鉄道会社関係なく協力してやっていますよね。
これを五島慶太は大正時代の頃からやろうとしていたわけです。
だって乗り換えとか無いほうが便利だし。当時はわかってもらえなかった。
苦学生だった五島慶太、当時は小林慶太ですが、今で言う上田高校で学び、
その後今で言う松本深志高校で学び、東京高等商業学校、今で言う一橋大学に
受験するも英語の出来が良くなく失敗し、翌年東京高等師範学校、今で言う
筑波大学に合格。その後東京帝国大学、現在の東京大学で学んでいます。
東京帝国大学を卒業する時は29歳だったそうですが、公務員に就職出来て
その後鉄道院、(鉄道省)で働くこととなります。
若い時には学校の先生などもしていました。夢を追いかけたのですね。
小県と書いて「ちいさがた」と読みます。難読地名。
しかし、長野県民ならだいたい読めます。
青木村は、昔は上田地域から松本へ行く通り道でした。
鉄道で結ぶ構想もあったようですが、結局実現しませんでした。
青木村は、隣接する自治体は上田市と松本市と筑北村の3つのみ。
「きをあ」
先週、上田の赤い橋で記事を書きましたけど、その時上田市が上田電鉄に
毎年9000万円補助出していると書きました。
いちにちあたり24万6575円。結構大きな金額ですよね。
ここの展示で強く感じました。
だってこんなにあった上田地域の私鉄、別所線だけになってしまったの
ですから。今では国鉄だった信越本線も、しなの鉄道で私鉄ですけど。
やっぱり赤い橋は上田のシンボルとなったのです。
別所線は、東急電鉄のお古の電車が走っています。
これらも五島慶太が関係しています。
さすが令和に出来た新しい博物館。展示の仕方の工夫が素晴らしいです。
よくある、細かい文字で年表をベタベタ貼るだけの自己満足なそれとは
随分違います。なるべくわかりやすく丁寧に。あまり深追いせず
要点を上手にまとめて写真も多用して程よい情報量。あまり多いのもね。
五島慶太氏の生家は青木村に存在していたのですが、落雷で焼失して
しまったんだそうです。博物館の中のVRで再現されたそうです。
鉄オタの人もジオラマなどで楽しめると思います。
この記事アップするなら、昨日でしたね。
10月9日で(東急)の語呂合わせだったのか。