今日はタイヤ交換で車を買ったディーラーに行ってきました。
週末ということもあって少し待ち時間があったのですが、その際地元のローカル紙、
「須坂新聞」という新聞を読んでいました。
バックナンバーもあって、さよなら屋代線特集がずっと組まれていて色々と書いてあったのですが、
いくつか覚えている範囲で書いてみますね。
当時は駅舎に住みこんでいる方がいて、その方の投書が載っていました。
休みもなく、駅舎にお風呂もなくて近所の方にもらい風呂にいったり銭湯にいったりしていたそうですが、
それでもご近所さんや顔なじみの方と楽しい日々だったそうです。
信濃川田駅ですが、当時はりんごを運ぶ電車が往来していて活気があったそうです。
若穂地区などから昭和の始めの頃は須坂市内の高校に電車で通う生徒も多く、朝の通学・通勤電車は
駅員さんに背中を押されてぎゅうぎゅう詰めの電車だったそう。
大正・昭和初期などは須坂は製糸業で大変栄えていたので河東線で須坂に行く人も多かったようです。
当時はまだ自転車もそんなに気軽に買える訳でもなく、自動車なんて個人で持っている人はほとんどいないし、
通勤・通学の足として多くの電車利用があったようです。
松代方面に帰ってきていたそうですが、その最終電車でも座れないほどの乗客があったそう。
戦時中は、松代駅では大勢の出征のお見送りがあったそうです。
廃止前は乗客も少ない屋代線でしたが、昭和40年代くらいまでは大勢の方の利用があったことが
よくわかりました。